サリーのきもち。

29歳独女サラリーマンの、日々のうんぬん。

選ばれるための戦いは、真摯にやるだけじゃ勝てないから、むず痒い。

いま、この本を読んでいる。

 

日本につけるクスリ

日本につけるクスリ

 

竹中平蔵さんは、周知のとおりの方。
もう一方の、安部俊樹さんという方は、私と同い年で、
NHK Eテレの「ニッポンのジレンマ」という番組に出演されていて、
たまたま観覧に行った際、存在を知った。

www4.nhk.or.jp

 

以来、とってもファンで、この本も手に取ってしまった次第なのです。

 

安部さんのファン話は、いつかまとめて書きたいと思っていますが、 

 

今日は、この本の後半に出てきた、
竹中平蔵さんが仰っていたひとつを、メモしたい。

 

*******

曰く、

選挙の街頭演説は、ほんとうに難しい。


自分が実現を約束したい政策について、
前提から順を追って、わかりやすく説明しても、
だれも、足を止めない。

通りすがりの人との、コミュニケーション時間は、限りなく短い。
その一瞬で、インパクトのある単語や振る舞いで、惹きつけないといけない。

 *******

 

そうだよなぁ、
竹中さんが、その場で話し続ける数時間は、
通り過ぎる人たちの、一瞬一瞬の積み重ねで構成されていると思うと、
発信者には、それはもう、果てしないエネルギーが必要だろうと思う。

 

どんな政策をしてくれるか?


それを基準に、私たちは選ぶはずなのに、
真摯に、まじめに、政策を語られても、
私たちは、その人を選ばない、という、矛盾。 

 

 

さて。

上記に思いを巡らせていたら、別の話を思い出した。
デザイン会社の、コンペの話だ。

 

*******

とあるデザイン会社A社は、コンペに参加しない主義だという。

 

なぜなら。

例えば、クライアント先B社が、
自社商品のパッケージデザインを、リニューアルする際の
コンペを実施したとする。


A社が、
その商品のコンセプト、マーケットニーズ、今後の方向性、等を
きちんと考えてみると、
実は、がらがらぽんの変更をする必要はなく、
一部分を、すこしマイナーチェンジすれば、
商品と顧客とのコミュニケーションは、大きく改善するだろう、と
考えたとする。

 

でも、これをコンペで出したら、負けてしまう。
競合デザイン会社が、がらがらぽんの、派手で見栄えのいい提案をすると、
そちらの方が、魅力的に思われてしまう、という。

 

結局、「コンペで勝ちやすい提案」が通り、
「ほんとうに顧客にとって意味のある提案」が、通らない、ということが
起きてしまう。

 

それは、本意でない。
だから、コンペには参加しない。

 

 *******

 

 

ふむ。

 

私にも、同じような経験がある。

 

営業時代、プレゼン対決で、競合に負けた。

 

私が作ったプレゼンは、デザイン会社のコンペと同じで、
相手の会社にとって、いいものを素直に書いたものだった。

負けた時、上司が言った。
「いいものを実現するためには、まずは選ばれるための戦いをするべきだった。
 自分の責任だ。申し訳ない。」

 

 

ふむ。

 

選ばれたい理由が、本質的なものであればあるほど、
選ばれるための戦いは、
やってて、なんだか、きもちわるい。

 

でも、世の中そういうふうに、できていることが多い。

 

 

生きていくって、
コツがいるなぁ。

【考察】 メガネ女子に萌える気持ちを、どうして止められないのか。

今朝満員電車に揺られながら、かんがえた。

 

ほら、ぐぐるとこんなアカウントな方もすぐ出てきたよ。。。

twitter.com

 

 

1. 目の周りに枠組みができて、目が大きくみえるから?

めがねって優秀で、目の補正能力がはんぱないんです。

大きさの錯覚もさることながら、

位置もね、補正できるよ。

離れ目の人、寄ってる人は、メガネおすすめ。

あと単純に、顔がゴチャってするから、化粧薄くても盛れる。

 

2. ガラス1枚分の距離ができることで、本音を奥に隠した感じがするから?

ミステリアス、ってやつですかね。

 ここでも書きましたけど、

sally-no-kimochi.hateblo.jp

 

わかりづらいのって、モテるのよ。

 

 

3. 優等生イメージのアイテムで、知的さを演出するから?

いまどき、おベンキョがんばったから、目が悪くなるだけじゃないのにね。

ステレオタイプの底力。

 

ステレオタイプといえば、

「女教師=エロ」「女医=エロ」っていう

ど王道ありますよね。

 

知性とエロは、相関関係があるのか?

 

知性=メガネ

知性=エロ

メガネ=エロ

 

ってなってますよね。現代のニッポン。

 

たしかに、すっからからんのバカちんは、エロくはないな。

深いぜ。

 

 

4. 目が悪いっていう、生物としての弱点、隙を感じるから?

生き物としての、知性という強みと、悪い視力という弱み。

その同居した感じが、甘えたいような、頼られたいような!みたいな!!

 

 

満足しました。

しーゆー。

素晴らしい指導と、頑張りきらなかった私。もう会えない、大好きな先生。

忘れられない先生がいる。

 

 

中学生のころ通っていた
ピアノの先生だ。

 

 

新井先生といった。
上品な、おじいちゃん先生で、
私のように、趣味として片手間で習うには、
勿体無いほどの、いい先生だった。
本業は音大で教えていた。

 

私は、ピアノの練習が嫌いだった。

レッスンは、毎週水曜17時から。
水曜になると、私はいつも15時ごろに、重い気持ちで家に帰った。

 

そこからは、死にものぐるいの集中力で練習。

前回のレッスン以降、ピアノに触っていないので、
この、レッスン当日の直前1時間半ほどの練習が、
前回レッスンからの進歩のすべてになる。

 

追い詰められた、あまり健康的でないプレッシャーの中、
全力疾走で練習をしたあと、
家から自転車で3分の距離にある先生の家へ向けて、
16:55に家を飛び出し、
16:58ごろ、先生の自宅の古びた重い扉を、ぐぐぐと押す。

 

薄暗く、重々しい木製の家具や、しめった絨毯のにおいがして
どこか、時が止まっているような、
長い時間がこの空間には溜まっているような、
そんな空気を切りながら、私は階段を一歩ずつ降りる。

 

 

 

なぜだか、冬場の記憶しかない。
レッスン室に入ると、先生が「はい、こんにちは」と声をかけてくれる。
レッスンは1時間。
私は、1時間もつほど、前回レッスンからの前進がないので、
まず、時間稼ぎに、「さむいさむい、まだ指が動かない」という。

 

いつもそうだから、いつからか先生は、
石油ストーブを、すごくあったかくしておいてくれた。
「はい、ここにおいで。」と、その前に私をいざない、
穏やかに気長に、待っていてくれる。

 

さすがに、10分も稼げないその儀式のあと、
そろそろはじめましょうか、と、レッスンは始まる。

 


それまで、私は、音大生の姉や母親にピアノを習っていた。
新井先生は、はじめての、男の先生だった。

 


先生の教え方は、いままでに経験したことのないものだった。

 

 

姉や母の教え方は、部分部分を指摘し、修正し、
そうして積み上げで曲全体を良くしていった。

 

片や新井先生は、細かい指示はまったくしなかった。
いつも全体をみていて、指摘する場所は少なかった。
でも先生の言うように修正すると、曲が、がらりと、よくなった。

 

幼いながらに、私は、すごく男性的な指導だと思っていた。
こんな風に、女性にはできない。


先生の言うことは、難しかった。
私には無い発想のことも多く、言われることに、なかなかピンとこなかった。
でも、だからとてもいい先生だと思った。
私ひとりでは絶対にならない演奏に、最後には仕上がるから。
私にとって、先生は魔法使いみたいだった。

 

 


練習不足の私を、先生は怒らなかった。
「次は、ここまではやってこようね」、という分量を、
私に気を遣って、多くは与えなかった。
それをいいことに、私は、その枠を広げようともしなかった。
そうして、薄いレッスンを、のんびりと続けていた。

 

 


年に一度、発表会があった。

私は、練習は嫌いだけれど、
発表会でトチをするのは嫌だった。
だから、自分の中で恥ずかしくないレベルにまでは
発表会までに無理やりもっていっていた。
練習不足なりに、本番ではどうにか一定ライン以上の成果を残すので
「さっちゃんは本番に強いね」と、よく姉に言われていた。


それでも、人生で最後の発表会になった中2のとき、
今までで最悪の演奏をした。
ベートーヴェンテンペスト
何度も何度もミスをしたし、
暗譜が完全ではなく、途中で次のフレーズを忘れて止まってしまった。

 

私は、新井先生にも、みんなにも、恥ずかしかった。
明らかに、準備不足だった。

 

 

先生は、後ろのほうで立って聴いていた。
目に入った先生は、なぜだか、満足そうにしていた。
私には、それがわからなかった。

よかった、と、ほめてくれた。
先生は、よくないものに、よいということは、絶対にない。

自分の満足度が低い分、微妙な気持ちになった。

 

母や姉も、ほめてくれた。
たしかに、ミスは多かったけれど、
でも、テンペストという曲を、理解し、世界が、ちゃんとあって、いい演奏だったと。

 


新井先生は、なんて凄いんだろうと思った。
私は自分のテンペストが、どう仕上がっているかもわかっていなかった。
ただただ、先生の言うとおりに、ついていっていただけだ。

 

私は、自分の努力不足を悔いた。
せっかく新井先生が、私にすばらしい指導をしてくれているのに、
もっと練習すれば、もっといい演奏ができたはずなのに。

 

私は、とても勿体無いことをしてしまった、と、後悔した。

 

 


それが、新井先生の前で弾いた、最後の演奏になってしまった。

 

 

 

 

 

私は、その後学校が忙しく、受験勉強もはじまり、
フェードアウトするように、ピアノをやめることになった。

 

 

それから、何年経った頃だろうか。
先生の家の近所を、
先生と奥様がふたりで歩いているのを見かけた。

 

 

声はかけなかった。
かけられなかった。
私は直感的に、感じていた。
先生に会えるのは、これで最後だ。

 

先生は、弱々しく、ゆっくりと歩いていた。
その瞳は、ぼんやりとしていた。
私がピアノを弾いている隣で、
もっと、もっと!!と煽っていた、あの先生のエネルギーは
もうそこにはなかった。

 

 

家についてから、私は静かに泣いた。

 

 

 

 

それからまもなく、先生が亡くなったと聞いた。

 

 

やさしかった新井先生。
大きな大きな視点で、私の演奏を飛躍させてくれた、
すばらしい指導者だった新井先生。

 


実家を出て5年。
たまに帰省し、先生を最後に見かけたあの道を通ると、
ふしぎな気持ちがおりてくる。

 

切ないような、あったかいような感覚。
そして、すこしの後悔。

 

 

 

 

あれ以来、ピアノは弾いていない。
叶うなら、もう一度新井先生のレッスンを受けたい。
石油ストーブの前で、指を温めたあとに。

さっちゃん、わかってるねー。と言われたい。その嬉しそうな顔を、みたいの。なぜなら。

 ここでも書いたけれど、わたしはとにかく常日頃

人と会っていないと、気が済まない性格です。

sally-no-kimochi.hateblo.jp

 

でもそのぶん、私に時間を割いてくれた人に対して

「今日はたのしかったな。」って思ってほしいから、

 

相手の反応にはすごく敏感だし、

酔っ払ってわたしばかり話してしまった日は、帰り道にすごく反省する。

 

一方で、今日は、相手に楽しんでもらえたんじゃないかなって、

私なりに満足できる日もある。

その根拠は、相手が、

「そう、そうなんだよ!!!」って気持ちよさそうにしてくれたときが多い。

 

 

 

 

きもちよさそうに。

 

 

 

 

 

そう、この表現はすごく適切で。

 

 

 

 

この人は、わかってる!!

わかってくれてる!!

伝わってる!

 

 

って思うとき、って、

こう、パァァっっっっっと、

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って、なってくれる。

 

 

 

相手のはなしをよく聞き、

そのはなしを、少し違う言い回しも含めて反芻する、

近しいエピソードを加えたりしながら、

「わたしは、あなたの言っていることを理解しているよ。」

全力で、しめす。

 

 

でもこれって、簡単、ではなくて。

 

注意深くあいての話を聞き、

私の過去の経験を総動員し、

なんとかなる。

 

過去の経験を総動員、は、あたりまえだけど経験量がものをいうので

日々積み重ね、引き出しにしまっておく必要がある。

本やニュース等の外部情報のインプットも役に立つ。

最近こういうものを読んだんだけど、話してくれた状況と似ているね。と言うと、

話がより、拡がっていく。

 

 

 

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この顔を見るために、がんばってしまう。

だってすごく、きもちよさそうだから。

 

 

私といると楽しい、って、思ってほしいから。

こんにちも、色々な情報を引き出しにしまい、

反射神経で適切な取っ手を引くことに、

エネルギーを注ぐのであります。

 

 

 

 

 

正論を語るより、ひゃくぱー素直に反省した物言いに人は心を打たれる。そりゃそうか。

 

sally-no-kimochi.hateblo.jp

 

昨日書きましたこちら。

 

今日は、

 2. バズった理由

 

かんたんなことだけど。

メモしてみたいなと。

 

筆者の男性は、あたりまえだけど当事者である。

この内容は、客観的な第三者が両者をフェアにみて

状況を分析したものではない。

 

当事者のだんなさんが、

100%自責の立場で物を述べているところに、

支持が集まっている。

 

「相手も悪い。でも自分も悪かった。」

では、きっとあそこまでバズらない。

 

 

でも人間関係ってきっと、そういうところがあって。

 

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こうやって両者が鳥の目で正論を語り合うより、

 

 

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筆者のだんなさんのように、

自分の反省だけを潔く述べれば、

相手も、自分の反省点を素直に振り替えれるきがする。

 

 

この本みたい。

かの有名な、こちらどん。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 そう嫌われる勇気

カリナたそのドラマのもとのやつ。

 

ここでメインに語られることとして、

「どうがんばっても、人のことは変えられない」という教えがあるけど、

 

この筆者のだんなさんは、

まったく、奥さんを変えようとしていない。

 

「奥さんだって、もっと、ちゃんと理由を説明できるようになってもらわないと」、

みたいな言及が、一切、無い。

 

 

そこに、読者が読んでての、気持ちよさがある。

 

 

 

 

もうひとつおもしろいのは、

コメントをしているのが、圧倒的に、女性が多いこと。

まあ、当たり前なんだけど。

 

 

自分の状況を重ねている女性がものすごく多いけど、

あそこにあるコメントに多いような、

「そう、そうなんです!」

「わかってくれてありがとう!!」

 

だけじゃなくて、

 

「あなた(だんな)がそういうスタンスで来てくれるなら、

 私ももっと歩み寄り反省しないと。」

っていう、さっきの2こめの図みたいな、心持ちになるコメントが、

もっとあったらステキなのにね。

 

なんて思いました。

 

 

あの流れの中で、

「でも、奥さん側も理由を伝える努力が足りなかったよね。」

とか、男性がコメントした日には、

完全アウト。な、あの流れ。

 

完全に女性側に歩み寄った結果、女性に賞賛されまくる、

なんかどっかイビツなような、なんなような。

 

 

サイレントマジョリティーなのかなんなのか、

男性側の感想も、ぜひいろいろ聞いてみたいものです。

 

 

しーゆー。

 

 

 

 

 

ちょっとのことでケンカになっちゃう男女のあるある。

www.facebook.com

 

昨日から、女性友人がこちらの投稿をやたらシェアしているので

読んでみました。

 

こちらの内容について、

  1. 内容についての考察
  2. バズっている理由

 

を考えてみました。

今日は、1のほういきます。

 

 

 

人の意見を聞き入れるにあたり、大きく二つの要素があるとおもいます。

ひとつは、理由に納得すること(ロジックが通っていること) -①、
もうひとつは、誰が発信しているかということ -②です。

 

たとえばいくら正しいことでも、
信頼してない人から言われたら聞き入れたくなかったり、
理由がよく分からなくても、この人の頼みだから聞いてあげたいと思ったり。

 

②に権力が使われるとよくないこともある。
たとえば上司が偉そうに、「俺がいうんだからやれよ。」というのは、
傲慢だし怠慢、前者の努力が足りない事態。

 

とにかく両方のバランスが整って
コミニュケーションは成立すると思うのです。

 

 

今回のケースでは、
だんなさん側は、①が腹落ちしておらず(そして大したことだとも思っていない)、
②は満たしている(パートナーとして認めている相手である。)

 

でも奥さん側はおそらく、だんなさんは
①に納得していないのではなく、
②だと(私が軽んじられている)と感じている、ここが問題。

 

でも奥さん側の誤解には理由があって、
なぜならだんなさんは
「奥さんのお願いをなきものにした」行動を取ってしまったところに問題がある。

 

つまり、
「自分は納得していないからしないよ」、「なぜ5センチなの?全開でいいじゃん」
というコミニュケーションをかっとばし、
意味のないことだとみなして、なきものにしてしまっていることが、
今回の、ファイヤーしてしまった大きな理由かと。

 

生活共同体の罠として、
「大したことだと思わなかったから」、ということがよくあるけれど、
それは相手にとっては、すごく気になることかもしれないし、
女性は一般的にロジック説明が苦手、
男性が納得する説明ができていない自覚もないことが多いので、
丁寧にコミニュケーションしていかないと
「私は軽んじられたのだ」と思ってしまいがち。

 

女性の方がこの誤解の発生確率は高いけど、
パートナーってお互いを1番に認定して一緒にいる前提があるから、
コミニュケーションにこの罠はありがち。


そして、生活共同体なので、ひとつのことならあまり気にならなくても
「積み重ね」が起きてしまうと大きな傷を生んでしまう。


だから細かいことでも、
「あなたそのものを軽んじているわけではない」

ということを、丁寧に示す努力は必要である。

 

 

という、わかりやすい教訓なのかなぁと。

おもいました。

 

 

次回は、バズった理由をかきます。

しーゆー。

最も好きじゃないけど最も得意なことに人生を注ぐのってすこし勇気がいるよ。

私は、任天堂の故・岩田さんという方を、あまり詳しくは知らない。

でも、部分部分、伝え聞く話は、非常に興味深いことが多い。

何より、純粋そうな気がして。

まだ遠い存在だけど、好きになれそうな気がしている人である。

 

なるほど、と思った話に、こんな話がある。

 

岩田氏:
 要するに,「自分の好きなことと嫌いなこと――もっと言えば,自分がやりたいこととやりたくないこと――を,自分が得意なことと得意じゃないこととイコールだ」と思い込んでる人が多いです。本当は,それってかなりズレてるのに。

川上氏:
 ああ,ズレてますよね。

岩田氏:
 好きじゃないけど得意なこともありますし,好きだけど,実はあんまり得意じゃないよっていうことも結構あって。だから,仕事というのは「得意なこと」をやった方がいいんです。好きだけど得意じゃないことに溺れると,仕事っておかしくなることが多いんです。

4Gamer
 好きだけど得意じゃないこと,ですか。でも,自分でそれを見分けるにはどうすればいいんだろう。

岩田氏:
 自分の労力の割に周りの人がすごくありがたがってくれたり,喜んでくれたりすることってあるじゃないですか。要するにね,「それがその人の得意な仕事なんだ」って話で。逆に,自分的にはすごい努力して,達成感もたっぷりあるのに,周りからは「はあ?」みたいに思われることもあって。それはね,本人が好きだったとしても,実は不得意なことかもしれないんですよ。

 

www.4gamer.net

 

 

ほかのところでも、同じようなことを仰っていた。

ソースが見つけられなかったのだが、その要旨はこんな感じだったと思う。

 

・日本は、「努力!」「根性!」を賞賛するきらいが強い

・そのため、得意じゃないことも含めて、頑張れば褒められる

・だから、頑張っちゃう人が多い

・でもそれって、必要なことなの?

 それよりも、人より頑張らなくても、結果が出ることを突き詰めていったほうが、

 周りも喜ぶし、人の役に立てて自分も嬉しいのではないか。

 

 

私にとっての「人より頑張らなくても結果が出ること」は、なぜか、「司会業」である。

 

BtoB向けセミナーのように、ちょっとおカタメな司会とか、

エンタメ性強い百人規模の忘年会での、女子アナ的立ち位置の司会とか。

様々な職種の中で、発生ベースで抜擢され、ちょこちょこ、やってきた。

 

 

司会業は、それ一本の仕事にしたいほど、

一番やりたいこと、ではない。

 

でも、「かけるエネルギー」対「周囲の評価」、でいうと、

圧倒的に省エネで高評価がついてくる。

簡単にいうと、向いているようなのだ。

 

転職する気もないけれど、

たまぁに、気になる。

 

 

やりたいことなら山程ある。

今やれていることに、満足もしているし、

身ひとつなのだから、こんなもんだろうとも思っている。

 

身ひとつなのだから。

取捨選択がむつかしい。

人生一度きりと思って、極限の選択を重ねるのだけれど、

「次の人生に持ち越そう。」と、

完成された人生を追い求めすぎない余白も、

最近は必要だなと感じます。

 

そろそろ30歳。やれることが増えてきて、面白い反面、

捨てる選択をするシーンも増えてきたおとしごろ。

司会はいつできるかしら。この人生か、次の人生か。はたまた。