サリーのきもち。

29歳独女サラリーマンの、日々のうんぬん。

3.11の1週間後に、書きなぐった、そのときのほんとのリアル。

3.11の一週間後に、mixiに書いた日記を転記。
当時私は24歳。

 

あれから、5年かぁ

 

***

 

 

日本が揺れたあの日から数日間
人並みの気持ちの変化を経てきました。
結論としては皆と同じ

 

やれることをやるしかない

 

のだけど

 

付随して色々考えてしまうんですね。にんげんですね。

 


◇週末までは
ニュースとツイッターの世界に引きこもりすぎた。
心動かされたツイートにひたすらRT。
日本人であることへの誇りをみるみるうちに得ていく人々に
共感し、鼓舞される自分をコントロールできない。
TVからとめどなく流れる、自然に呑まれる街並みの画に
ただただ戸惑う自分をどうにもできない。
結果、不安と悲しみと感動の堂々巡りに疲弊。


◇週が明けて
「自粛」とか「不謹慎」に騙されつつも、
「被災地」ではなく、「支援の地」であることを自覚してきた東京で
少しずつ、普通の感覚を、余裕を、取り戻してきた。

そしてなんとなく感じてきた、この地の、ある意味生き生きとした人々。
普段よりも家族が早く帰ってきて、
なかなか無い、家族みんなで囲む平日の食卓に、
ニュースを憂いつつも、いつもより楽しそうな母親。
普段どんなに孤独だったり、見下されたり、
世間のはみ出し者だったりする人も、
この国難を共有していることで「当事者」になり得る、
計画停電の不便を味わうことで「共同体の一員」になり得る、こと。
否定する訳では決してなく、ただ感じていた。

 

 

◇今日出勤しながら
眩しい日差しの中で歩いていて
太陽の、世界も、心も、温かくする明快な素晴らしさを思ったとき、
あたしの感覚がとても馬鹿馬鹿しいとわかった。
有名人が多額の募金をアピールすることを売名行為だと貶す人や
何かにつけて「偽善」だと否定する人と
考え方としては一緒だ。
今取り上げるべきは個人レベルの満足感や利益や
行為に至るプロセスじゃない。被災地へ届く結果だ。

 

 

募金は役に立つこと。
節電は役に立つこと。
献血は役に立つこと。

 

 

災害は大変な不幸をもたらすけれど
人の心や共同体の強さが試される時。

悲劇から私たちが学ぶべきことは「慈愛」であって、
慈愛は疑わず素直に感動すればよいのだ。


単純明快な答えが本当に腑に落ちるまで、
特に人の感情にまつわることを
変にこねくりまわして交えて考えすぎるのがあたしの悪い癖だ。

でも人間は考えることをやめてはいけないから
こねくりまわさない、ことが必要なのだけど、難しいね。


東京はこれからが試練の時。
取り戻す日常の中で、当事者であり続ける強い想像力を。


そしてあたしは
母のためにたまには早く帰ろうと思います。
(コレがまた長続きがムズカシイのだけど。)