清水富美加騒動から考える、人のキャパシティ問題。
清水富美加騒動について考える。
清水富美加さん、盛り上がってますね。
月給5万円がうんたらとか、
人肉食べる仕事がつらいとか、
ありますが。
最近、よく思うのです、
ほんとうに、人のキャパシティって、
個人差がある。
キャパってなんだ。
ここでいう「キャパシティ」は、
許容できるもの(内野)と
許容できないもの(外野)の
範囲、境目、を指す。
内野の大きさ、
外野の大きさ、
内野の場所、
外野の場所、
ほんとうに、人それぞれだ。
彼女のように、宗教のような信条が関わることもある。
スキルが関わることもある。
感受性が関わることもある。
体力が関わることもある。
職場で、うつの人が出てしまったとき。
その人は、キャパオーバーになって、そうなってしまうことが多いけど、
その「キャパ」は、必ずしも体力的なことだけではない。
精神的なことだった場合、
その人にとっては「外野」でも、
多くの人にとっての「外野」に位置するものだとは限らない。
丁寧に紐解かないと、まったくわからないことだ。
紐解いたって、理解はできないかも。
「自分のキャパ」をものさしにした発言
清水富美加さんを、擁護するわけではないけれど、
月給に対して「若い時はそんなもんだ」とか、
人肉を食べることに対して「駆け出しの頃は仕事なんて選べないんだ」とか、
そういう論調だけは、「ん?」と思う。
月給に満足いかなければ、
仕事の内容がほんとうに嫌なのなら、
やめるのは本人の自由である。
(※今回は、辞め方、が悪い、のはそうなのかもしれないが。)
キャパの「外野」と「甘え」について
難しいのは、
人が「外野」として扱っていることに対し、
「それはおまえの甘えだ」と判断すること。
甘え。
これは、便利なことばだ。
いい使い方をすれば、人を鼓舞して次のステージまで連れていくこともできるし、
使い方を間違えると、人を崖っぷちまで追い込むこともできる。
きっと、すごく慎重に使わなければならないことばだ。
自分のキャパをものさしにした上で、使ってはいけないことばだし、
相手がただの「構ってちゃん」の場合は、バッサリ言ってやった方がいい時もあるだろう。
ひとつ言えるのは、
当人から遠い人が、軽々しく使ってはいけない、ということ。
事情をよく知り、当人への愛がある人が、
はじめて、使うことができることばな気がする。
そうじゃない人が言ったって、
傷つけることすらあれど、当人の心には、到底届かないから。
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キャパ問題。
最近、職場ですごくよく思うのだ。
人によって、内野の位置も量もほんとうに違う。
あまりに違うので、キャパオーバーに気付くことは難しい。
さぼらずに対話を繰り返すほかない。
人間生活は、面倒なものである。