サリーのきもち。

29歳独女サラリーマンの、日々のうんぬん。

清水富美加騒動から考える、人のキャパシティ問題。

清水富美加騒動について考える。

 

清水富美加さん、盛り上がってますね。

http://moco-garden.com/wp-content/uploads/2016/04/simizufumika.jpg

月給5万円がうんたらとか、

人肉食べる仕事がつらいとか、

ありますが。

 

最近、よく思うのです、

ほんとうに、人のキャパシティって、

個人差がある。

 

 

キャパってなんだ。

ここでいう「キャパシティ」は、

許容できるもの(内野)と

許容できないもの(外野)の

範囲、境目、を指す。

 

内野の大きさ、

外野の大きさ、

内野の場所、

外野の場所、

 

ほんとうに、人それぞれだ。

 

彼女のように、宗教のような信条が関わることもある。

スキルが関わることもある。

感受性が関わることもある。

体力が関わることもある。

 

 

職場で、うつの人が出てしまったとき。

その人は、キャパオーバーになって、そうなってしまうことが多いけど、

その「キャパ」は、必ずしも体力的なことだけではない。

 

精神的なことだった場合、

その人にとっては「外野」でも、

多くの人にとっての「外野」に位置するものだとは限らない。

 

丁寧に紐解かないと、まったくわからないことだ。

紐解いたって、理解はできないかも。

 

 

「自分のキャパ」をものさしにした発言

清水富美加さんを、擁護するわけではないけれど、

月給に対して「若い時はそんなもんだ」とか、

人肉を食べることに対して「駆け出しの頃は仕事なんて選べないんだ」とか、

そういう論調だけは、「ん?」と思う。

 

月給に満足いかなければ、

仕事の内容がほんとうに嫌なのなら、

やめるのは本人の自由である。

(※今回は、辞め方、が悪い、のはそうなのかもしれないが。)

 

 

 

キャパの「外野」と「甘え」について

難しいのは、

人が「外野」として扱っていることに対し、

「それはおまえの甘えだ」と判断すること。

 

甘え。

これは、便利なことばだ。

いい使い方をすれば、人を鼓舞して次のステージまで連れていくこともできるし、

使い方を間違えると、人を崖っぷちまで追い込むこともできる。

 

きっと、すごく慎重に使わなければならないことばだ。

自分のキャパをものさしにした上で、使ってはいけないことばだし、

相手がただの「構ってちゃん」の場合は、バッサリ言ってやった方がいい時もあるだろう。

 

ひとつ言えるのは、

当人から遠い人が、軽々しく使ってはいけない、ということ。

事情をよく知り、当人への愛がある人が、

はじめて、使うことができることばな気がする。

 

そうじゃない人が言ったって、

傷つけることすらあれど、当人の心には、到底届かないから。

 

 

***

 

キャパ問題。

最近、職場ですごくよく思うのだ。

人によって、内野の位置も量もほんとうに違う。

あまりに違うので、キャパオーバーに気付くことは難しい。

さぼらずに対話を繰り返すほかない。

人間生活は、面倒なものである。

今回は、グラファシブログから、村上春樹まで飛んだ、そんな雑記。

はじめて、たくさんの方に読んで頂けました(*´ω`*)

先日、1日数アクセスしかない当弱小ブログに、

突然多くの方にご訪問いただいた。

 

アクセス先はこちら 

sally-no-kimochi.hateblo.jp

 

きっかけは、

講師をしていらっしゃった山田夏子さんに、

受講の翌日、お礼のメッセンジャーをお送りし、

そこに、この記事のリンクも載せておいたことがはじまり。

 

ブログを読んでくださった山田さんが、

すすすすすごい!! ブログ見て、びっっっくりしました。

昨日の体験をここまで、表現できる言語表現力に感服です!

 

マジ、、、度肝抜きました! あああありがとうございます!

いやいや! 本当にびっくりした!

 

と感嘆してくださり、

彼女のFacebooktwitter、公式HPでまで、

私のブログをご紹介してくださった。

www.facebook.com

 

こんなに嬉しいことはないである。(*´ω`*)

 

 

 

「他者に伝わる」という感動

山田さんは、

「自分が伝えたいと思っていることが、伝わっている!!!」

って思ってくださって、

喜んでくださったわけで、

私は、この体験をまたひとつできたわけだ。

この体験↓

sally-no-kimochi.hateblo.jp

 

たとえ、伝わった内容が、些細なことだったとしても、

この感動って、すごく大きい。

今回は、さらに

山田さんにとっては、彼女が生活のほとんどを注いで

打ち込んでいらっしゃるテーマについて、だったので、

さらに喜んでいただけたのかな、と思う。

 

 

「人と人がわかりあう」

グラファシも、非常に工夫された、その手法、ツールのひとつだ。

人は、わかりあうという活動に、

日々日々、とても苦労している。

 

人は、結局のところ、

ベースが孤独なんだなと思う。

 

 

孤独感ってやつ。

どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう、ぼくはそう思った。

どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。

これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、

それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、

なのになぜ我々はここまで弧絶しなくてはならないのだ。

何のために?
この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。

 
引用元:

スプートニクの恋人 (講談社文庫)
 

 

地球は、人に少しでも寂しさを感じたら自分に引っ張りつけて、

そうして重力が働いて

だから寂しくない人なんていなくて

完全に寂しくない人は、この惑星の滋養にならないから、

ふわふわ飛んでっちゃうのかもしれないね。例えば天国とかに。

(ハタチの時にサリーが書いた返歌)

 

 

*** 

 

すべての人の使命として、

孤独感っていう、

得体のしれない化物と、闘いながら生きている。

 

物体として、自分は他者とは切り離された個体で、

どんなに言葉を尽くしても、100%理解をしあうなんて不可能で、

 

だから、ちょっとでもそのパーセンテージが上がれば幸せを感じ、

 

「孤独」があるから、「幸せ」がある。

 

 

だから私は、グラファシみたいな、相互理解にも繋がるアプローチって

すごく意味があると思うし、

自分自身、理解力に長けることを目指したいと思う。

 

子供のころ

「人の気持ちを考えて行動しましょう」

って、当たり前のように習うけど、

これって実は、すごく難しいことを言ってるじゃないですか。

 

人の気持ちを考えても、本当にわかることなんてきっとないんだけど、

でも、その心持ちを持って生活していないと、

0%理解の行動になってしまうリスクがある。

「100%理解しましょう」じゃなくて、

「30%でも、40%でも、少しでも多くなるよう努力しましょう」

っていう、教訓なんだと思う。

 

 

あんまり、

「なんだアイツはサリーのことをわかってくれないんだ(TOT)」

なんて、思わないようにしよう。

無理ゲーなのだ、そもそも。

そんな期待は。(TOT)

脊髄反射SNS vs 芸術・アートの世界。

ワカモノの口癖「情弱だからー」。

最近、私の友人達は、よく自らのことを「情弱」と揶揄して遊ぶ。

 

流行っている新しいサービスのことには詳しくないし、

そもそもITリテラシー高くないし、

携帯はすぐデータ制限に引っかかり、

月の後半2/3は、おすすめのブルゾンちえみ動画のリンクを送っても

「ごめーん制限中で観られないーくそー」と返事がくる。

 

じょうじゃく、なんて言葉は、昔は使わなかったなぁと思うのである。

 

 

この世は、効率重視の極み。

改めて言うほどのことでもないけれど、

現代社会は、「情弱」の言葉に象徴される通り、情報に溢れている。

どれが確かか不確かかもわからない。ただただ量が多い。

そんな中、「パーソナライズ」「マッチング」なんて呼ばれる

なぞのアルゴリズム

私たちは「誰かが選んだ、自分にマッチした情報」を取得すればいいことになっている。

それが、「効率的」ってことになっている。

 

一方で、ITやAIの発達により、単純作業は機械に代替され、仕事は複雑化。

なのに、通信スピードが上がり、私たちの仕事のスピードも上げざるを得ず。

複雑な仕事を、速くやれとな。

そのオーダーは、「効率を上げろ」というメインメッセージを含む。

 

まあ、

とかく、「効率」が求められる世の中である。

 

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SNSが普及してどうなった?脊髄反射の毎日

現代社会の象徴のひとつは「SNS」だと思う。

私も毎日、何かしらのSNSに触れて生きている。

 

SNSを通じて、私たちは脊髄反射的に世の中に発信できるようになった。

何かのニュースや事象に対して、「即反応」できるし、

その分、その話題が淘汰されていくのも速い。

何かが起きたら、瞬間的にわっとみんなが反応して、泡がしぼむように小さくなり消えていく。

 

その脊髄反射の発言は、

ふかーく推敲して推敲して、周囲の関連事項も考慮した仕上がりには

到底できづらい。

時間をかけて仕上げたところで、その話題はすでにしぼみかけていて、注目度が下がっている。

盛り上がりタイミングに合わせながら、誰にでもできるアクションは、

より、本能的・刺激的な単語や、わかりやすい論調を並べることだ。

 

 

 

そんな現代における「芸術」の役割

芸術は、効率的ではない。

人やものによっては、何年も何年も何年もかけて、完成させる。

 

芸術は、往々にして理性も伴う。

本能とか、衝動とか、感覚とかで、わーっといくようなイメージもあるけど、

深く深く思いを巡らすということは、

理性も本能も全部巡らすということなんじゃないかと思う。

 

現代は、こういう、

中長期の時間をじっくりかけ、深く深く考え抜くということが

軽視されがちだと思う。

効率的であること、速いこと、わかりやすい(単調である)こと、バンザイ主義。

 

 

でも、「じっくり、深く」に代表される

「芸術」や「アート」の類が、

今こそ、もっと大事にされるべきだと思うんだ。

 

 

なぜなら、

速さやわかりやすさだけを求め、

じっくり、深くのスキルがなくなっていくと、

騙されやすく

理性的でない

世の中になっていってしまうから。

 

 

文学にしろ、絵画にしろ。

そういうものでこそ、トランプ批判とかやってほしい。

 

たとえばそんなひとつの絵画の前で、1時間でも2時間でも、じっと佇みたい。

絵画と対話して、自らと対話して。

贅沢な時間だ。

だけど、絶対にむだじゃない。

 

 

****

 

はあ、

ブルゾンちえみの動画サーフィンもいいが、

今週末は、美術館に行こう。

【バレンタイン】友チョコならぬビジチョコの、効果効能。

私にとってのバレンタインは、有益なビジネスコミュニケーションである

 

私は毎年、大量のお菓子作りをする。

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今年は、3種類・計50個ちょっと作った。

これ、その9割以上を、会社で配りきる。(男女両方)

 

いまどき手作りする人って、そんなに多くないみたいで、 

会社でもだんだんと恒例の名物になっていく。

特に女子からの期待値が高く、

増え続ける負荷を感じつつも、やめることができない。

 

たくさん配りたい気持ちはあれど、

あんまり小さく切って、しょぼくして数を増やすこともしたくなく、

ひとつひとつ、まぁまぁの満足感を得られるサイズにしようと思うと、

なかなか骨の折れる作業である。

 

 

「やる意味ある?」と思う、バレンタインのあるある風景

勿体ないなぁと思うのは、

まわりの女子たちが、

直接渡さず、離席中の机の上にぽいぽい置いていく風景。

すごくよく見かける。

 

男性が席に戻ると、こそこそと

「ねえこれ誰かわかる?」と聞きまわり、

差出人が判明すると、軽くお礼を言いに行って、

ホワイトデーに、ちょっと高い市販の何かを用意するのだ。

 

なんか、すごく義務的な儀式。

あげるほうも、もらうほうも、

楽しいのかな?

と思う。

 

男性側の

「お返しするの大変だから、用意しなくていいからね」to女子 とか

女性側の

「あー今年もそろそろか・・・どうする?(萎)」with女子同士

みたいな、お決まりのシーズントークからも、

なんだかあんまりいい行事になっていない

雰囲気を感じる。

 

 

「贈り物」なんだから、

義務化した途端、

本質は滅んでいるのだ。

 

 

私が複数種類のお菓子を作る理由

私は大抵、3種類作る。

好き嫌いがある人に、選択肢を与えたい、というところもあるけれど、

「選んでもらう」という、コミュニケーションが生まれるからである。

 

席に行って、

それぞれのお菓子の説明をして、

選んでもらって、

余裕があれば、最近どうよみたいな話をする。

 

いつもお世話になっている人へは、お礼の気持ちで渡すし、

久々に話す人は、これをきっかけにちょっとした話ができる。

 

そう、お菓子そのものは、言ってしまえばただのツールで、

大事なのは、コミュニケーションなのである。

 

手作り、ということもあってか、

食べたあと、数日後でも、声をかけてくれる人も多い。

「〇〇さん(←サリー)、美味しかったよ~」

「家で食べたら、半分家族にとられたよ。ごちそうさま!」

 

 

なんかね、すごく平和。

 

 

たくさん作ることの、デメリットもあります。

あまりにたくさん配っていると、

「もらった人が特別」というより、

「もらえなかった人が目立つ」という図式になっていく。

 

デスクの島に10人いて、8人だけに渡したいけど、

そうすると残り2人に対してなんとなく気まずいから、

10人みんなに配ろう、となると、

逆に、その2人よりお世話になっている

他の島にいる人の分を、作れなくなったりする。

(結婚式に呼ぶ人の法則といっしょ)

 

でも、手作りだから、作れる量はいくら頑張っても有限なんだ・・・(T_T)

 

あと、なんかもらうありがたみが減っていく。

気がする。笑

みんな貰ってるから、みたいな。特別感が醸成できない。

同時に愛を振りまきまくると、愛は伝わらないのだ。かなしい。

 

 

 

上記分量を作るのに、どのくらい時間がかかるか?

参考までに、メモしておきます。

<土曜>

夕方:作るものを決める(色味や工数を考慮)

    (例)今回のラインナップ

      ・クリームチーズ&チョコしっとりケーキ(色:ココア系)12~16個

      ・ドイツ風 りんご&ナッツのパウンドケーキ(色:白っぽい)16~18個

      ・どら焼き(ネタ用。一度で個数たくさん作れるのもGood)20個

 

   レシピを確認し、買い物表を作成。

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※あとからブログ掲載イメージ用に作ったので実際のレシピとは異なります

 

夜:買い物

   材料と、ラッピング用品を買う。

 

<日曜>

  9:30~11:00 クリームチーズチョコケーキ作成

11:00~13:00 りんごケーキ作成

13:00~   お昼ごはんたべる

14:00~14:40  クリームチーズチョコケーキ 切る&袋詰め

14:40~16:30 どら焼きの皮作成

16:30~17:10 りんごケーキ 切る&袋詰め

17:10~18:30 どら焼き あんこ挟む&袋詰め

 

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日曜は、ほぼ丸一日作業になりました。

 

その他プチポイントは、会社に持っていくタイミング。

まあまあの重量になるため、パソコン等重いものを同時に持っているとツライのと、

満員電車では、せっかくのお菓子がつぶれないように守る必要アリです。

 

 

ホワイトデーは要注意

全員ではもちろんないですが、すんごい量返ってきます。

渡す際、「ホワイトデーはいりません」と言うか、

「缶詰にしてください」とリクエストする必要有。

(賞味期限短いものが大量に集まると、ほんとさばききれない。)

 

 

****

 

以上、

作る苦労はあるけど、やる甲斐ありなのです。

だからやめられない。

ビジチョコ。

 

グラフィックファシリテーションを体験してみた。

会議における「板書」の存在

板書って、誰がやっていますか?

7年くらい社会人やってきましたが、たいていは

「下っ端」か、「気が利く人」がやっている印象。

 

私は、その会議への意欲が高いときは、

下っ端ぶったり、気が利く人ぶったりして

よくホワイトボードのペンを持つ。

でも、目的は、いいやつぶりたいわけではない。

その会議を、自分の思うままに仕切りたいだけである。

 

板書の力はすごい。

みんながそこに着目し、そこの表現に引っ張られる。

 

どの発言をピックアップして書くか。

何は書かないか。

何を大きく書くか、色をつけるか。

 

結論を操作する板書は、ある意味簡単だ。

極端に言えば、自分の発言をこっそり大きく書けばいい。

 

でも、会社やメンバーへの愛着が深いほど、

そうじゃなくて、

もっとみんなに納得感があって、

浸透率の高い合意形成に繋がって、

はたまた新しい何かが生まれて、

そんなフォローアップをする板書ができるようになりたいなぁと

ぼんやり、しかし常々、思ってきた。

 

 

グラフィックファシリテーション体験会に行ってみた。

グラフィックファシリテーションってご存知ですか?

略して「グラファシ」というらしい。

その名の通り、グラフィックで、ファシリテートするわけである。

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モノのイメージは、こんなかんじ。

 

私の板書活動のヒントになる気がして、その体験会に、行ってみた。

(絵は描けないのに。)

 

 

講師はこの方。

しごと総合研究所の代表取締役、山田夏子さん。

twitter.com

www.shigotosoken.jp

 

会場に入り、目があったその人に、

「ああ、敵を作らない人だ」と思った。

どんな人をも怖がらせない、初対面ですっと入ってくる感じ。

すてきな空気感です、山田夏子さん。

 

会の中で「ははーんなるほど・・・」と思ったポイントみっつ

1、深い合意形成のためには、3つの現実レベルを共有する必要があること。
2、グラファシは、「すべての声に光をあてる」行為。
3、紙面の量が、議論量のコントロールに繋がること。

 

 

1、深い合意形成のためには、3つの現実レベルを共有する必要があること。

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※きたないメモ書きでごめんなさい

 

人にとっての「現実レベル」には3つの段階がある。

一番上は、「合意的現実レベル」。事実とか、数字とか。

2段階目は「ドリーミングレベル」。言葉にできる、感情とか、価値観とか。

3段階目は「エッセンスレベル」。言葉にできない、雰囲気とか、イメージとか。

 

※上記はアーノルド・ミンデル博士が提唱したモデルとのこと。

アーノルド・ミンデル - Wikipedia

 

 

この3つを行ったり来たりして、すべてを共有することが、

より深い合意形成をするポイントらしい。

でも、例えば議事録は、一番上しか語られないので

(〇〇さんはこの発言を、ひどく残念そうに言った。とか議事録には書かない)、

深い理解には至らないのだそう。

 

なので、山田さんのグラファシは、

ドリーミング&エッセンスの要素を盛り込むことを重視している。

たとえば、このグラフィックは

f:id:sally-no-kimochi:20170214192035j:plain全体的に、どんよりムード。

自分たちが、後ろ向きな話題ばかりしていることとか、

みんなが不満を抱えていることを、グラフィックで自覚・共有できる。

テキスト情報って、その「雰囲気」を見える化することはできないから、

メールのやりとりとか、LINEのやりとりは、誤解が生まれやすかったりする。

 

 

2、グラファシは、「すべての声に光をあてる」行為。

グラファシをする際は、すべての発言を描くらしい。

そうすることで、「声の小さい人」「マイノリティの人」が

黙殺されることを防ぎ、全員での合意形成を目指す。

チームビルディングを本業とされる、山田さんらしいアプローチ。

 

これは、「びくーーーーっっ」って感じでした。

私は板書によって黙殺してきたので。。。

 

でも、テキスト情報は、暗に何かの存在をなくすことに繋がりやすいらしい。

たとえば、「会議に居た人は、ほとんど都内在住の人でした」と、

「会議には、都内在住の人と、遠方からも数名来てくれました」では、

同じ事実だけど、まったく違うイメージになる。

「絵」の方が、全体を公平に描くことに向いている表現方法だそう。

 

3、紙面の量が、議論量のコントロールに繋がること。

山田さんの流派は、「グラファシをする人は絵を描くことに徹し、なるべく口出しをしない」スタンスだそうなのだが、

色々な要素が、暗に上手にコントロールとして働くことがある。

 

面白いのが、紙の量。

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今回、参加者数名で、「会議について」をテーマに話をして、

山田さんが実演としてグラファシしてくださったのが、この画像。

4枚の模造紙が、左からどんどん埋まっていくのだけど、

「残りの紙がこのくらいしかない」って見えてくると、

おのずと、私たちは結論を出そうとする。

また、前半が暗い色(負の話)が続いてくると、

自然と、未来に向けた話や、よい面をフォーカスした話も増えてくる。

右に行くほど、明るい色が増えていく。

 

これは、誰かに「そろそろ結論を出しましょう、時間がないから」と言われるよりも、

ずっと、自然発生的な主体性をもって、場が動いてくる事象。

だれも嫌な気持ちにならないし、誰かに誘導されている感じもしない。

「絵」とか「紙」とか、人格のないツールが誘導することで、

すごく、場の雰囲気が柔和になる。

 

まとめ

他にも学びはたくさんありましたが、全部書くとネタバレになりすぎるので、

興味のある方は、ぜひググってみてくださいな。

 

とりあえず、すぐ使えそうなアイコンとか似顔絵を

描けるようになりたい。なる。うん(._.)

 

 

 

***

(後述)

おかげさまでこの記事を多くの方に読んで頂けて、

感じたことをこちらに書きました。よろしければ、ぜひ。

 

sally-no-kimochi.hateblo.jp

 

 

仕事の選び方と、恋の進め方はいっしょにしてもいいかもと思った話(後半)

 ※前半はこちら

sally-no-kimochi.hateblo.jp

 

アラサーの恋愛

はあちゅう氏のこの記事を読んだ。

wol.nikkeibp.co.jp

 

このてのテーマの記事は多いなぁ。

アラサーの恋愛観って、東京タラレバ娘然り、よく話題になる。

結婚バンザイ主義へのアンチテーゼであったり

自己実現と子育ての天秤だったり。

 

かくいうサリーも、完全にこの世代。

Facebookを開けば、

結婚式の写真・赤ちゃん(子ども)の写真・食べ物の写真

がズラッと並ぶ、そんな世代。

 

 

結婚願望?あるあるめっちゃある

「さっちゃん結婚願望あるの?」

「生まれた時からある!!今日結婚して明日子ども生みたい」

「笑」

 

うちは両親が円満夫婦なのもあり、結婚に対してポジなイメージが強い。

子どももほしい。

女として生まれたからには、「子どもを産み、育てる」という経験をしないと、

人間として、完成しない気がする。

 

違う考え方があるのも、もちろんわかる。

逃げ恥の中で、ゆりちゃんが、

誰もがすべてのことを深く知るのって無理だと思わない?誰かが知っていることを誰かは知らなくて、そうやって世界は回っているんじゃないかしら。

と言って、結婚しない・子どもを生まない女性がいることも

必要だと言ったシーンがあった。

 

なるほどなぁ、って思ったけど、でも共感はできなかった。

どうしても、私はできるだけ全ての経験をしたいと思ってしまう。

経験があればあるほど、人間レベルは上がると思ってしまうから。

ここで書いたように。

sally-no-kimochi.hateblo.jp

 

子どもを生むからには、早く結婚したほうがいいに決まっている。

これから先、年をとればとるほど、出産は色んな意味で辛くなっていくし

妊娠も難しくなっていってしまうかもしれない。

 

 

 

なのに結婚に繋がる恋愛ぜんぜんしてない。

サリーは不倫ばっかりになってしまう。

いまの彼氏も奥さんがいる。

「結婚したいんじゃないのかよ!」と自分でも思う。

 

不倫が好きなわけではもちろんない。

スリルとか求めてない。

はあちゅう氏が言うところの「カジュアル不倫」をしているわけでもないし

いつも相手に対してはかなり本気。

 

 

周りには、

「はやく別れて幸せになりなよ」とか言われる。

その「幸せ」って、たいてい結婚のことを指している。

 

なんだよ!自分の幸せは自分で決める!

って、ぷんって思うけど、

その自分が、早く結婚したい子どもほしいと言っているのだから、しょうもない。

幸せ=結婚 と定義しているのは、紛れも無く自分自身だ。

 

 

 

結婚願望あります。子どもがいる友達が羨ましいです。

ちょっとした焦りもあります。でも不倫してます。

なんかすごく多そう、こんなアラサー。

 

 

 

キャリアについてはアドリブ重視なのに、恋愛には描く緻密なシナリオ

気づけば、サリーはすごく矛盾している。

キャリアについては、

「人生何が起こるかわかんないんだから決めつけたってしょうがないじゃん(゚∀゚)」

なんてスカした顔で言っているのに、

 

恋愛については、

「子どもが欲しいんだから、30歳、せめて31歳では結婚したい・・・!(TOT)」

なんて追い込まれた顔で言っている。

 

自分の人生はひとつだけなのに、

テーマによって真反対の主義なんて、なんか変だ。

 

 

恋愛にも、キャリアと同じ考え方を持ってきて、

ゆるく構えていたほうがいい気がしてきた。

「何が起こるかわからない」は、仕事も恋愛も同条件だ。

 

ゆりちゃんも言ってた。

人生が予定通りにいくなのら、私は27歳で結婚していました。おこごとおばさんやセクハラおばさんになる運命など誰が想像したでしょうか。いいですか。思いもよらないことが起こるのが人生です。

 

このまま結婚が目的化したら、元も子もない。

子ども作るために結婚しても、不妊になるかもしれないし。

 

執着の強い予定を立てても、自分の首を締めるだけ、かも。

 

 

さて。

こんなこと言ってたら、さらに婚期は遅れるのだろうか・・・。(´・ω・`)

 

生まれつきの「愚痴っぽい人」ってなかなかいないよ。じゃぁどうして愚痴ってしまうの?っていう話。

ぐちぐちぐちぐち

 

愚痴を言ってるシーンって「ぐちぐちぐちぐち」という音が

すごく似合う。

そのシーンの音声をOFFにすれば、口の動きがどうあれ

「ぐちぐちぐちぐち」に聞こえてくる。

 

愚痴っぽさに含まれる粘着性が、音から感じられていい。

ぐちぐち

ねちゃねちゃ

って感じ。

 

 

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※すみません納豆は大好きです。

 

 

職場に、ぐちぐちしたチームの登場

 

さて、最近我が職場では

とあるチームの

「愚痴っぽさ」

が、話題である。

 

どんな愚痴か?といえば、

「○○○チームは何もわかってない」

「▲▲さんが進めているあれは進め方が悪い」

等、

要は、人や他チームへの不平不満である。

 

 

そのチームの周囲では、

「あそこはモチベーションが低下が著しい」、とか、

「結局自分で何も変えようとしないし、主体性が足りない」、とか、

「モチベーションの高いチーム相手に、ネガティブキャンペーンをされて

負の影響を与えられたら困る」、とか、

なんにゃなんにゃ言われている。

 

 

「愚痴っぽい人」って、なんだ。

そのチームの人達は、個人個人が「愚痴っぽい人」と捉えられるようになった。

でもその表現は、ちょっと雑だと思う。

 

愚痴っぽさで人を分類すると、こんなイメージ。

1,誰にも愚痴を言わない人

2,言いやすい人には言う人

3,誰かれ構わず言う人

 

 

1は、心の強い人ではあるが、周りからすると「大丈夫?たまには息抜きしてね」って気持ちになる。

3は、ある意味とても心の強い人である。鈍感力、とも言う。

 

大抵は、2に分類されると思う。

(かなりグラデーションはあるのは承知)

 

今回のうちの職場のぐちぐちチームの皆さんも、

凡そ「2」であることに注目したい。

 

 

例えば、ぐちぐちチームの中にAさんという人がいる。

Aさんと仲良しの、BさんとCさんという人がいたとする。

Aさんは、Bさんにはすごく愚痴を言うけど、Cさんにはほとんど言わない。

 

それは、Aさん云々というより、BさんとCさんの振る舞いが肝だ。

Bさんは言いやすい空気を作り、Cさんは言いづらい空気を作っている。

例えるなら

Bさんは、「そうね、あなたが可哀想」という態度を示し、

Cさんは、「そんなこと言っててもしょうがないじゃん、ださ」という態度を示す。

 

 

「愚痴っぽい人」は周りが作る

今回のぐちぐちチームの例えで言うなら、

チームのメンバー同士で、助長し合い、愚痴っぽい人を互いに育てていったし、

周りのチームも、そんなチームの存在を許容する態度をとっているということだ。

 

そのチームのモチベーション回復のために、今個人面談とか進めているみたいだけど、

策のひとつは、周りが、「何いってんのおまえら、ださ」って空気を出すことじゃないかと思う。

もちろん、彼らの不平不満を、前向きに改善していくことには、きちんと寄り添う上で。

 

だから、私は、できるだけ前向きで建設的な言葉を発信して、

「この人に愚痴ってもダサいって思われそうだから言わないでおこう」って

周囲が思うように、いたい。

そういう人が増えていけば、明るい職場になるとも思う。

 

 

「愚痴」ってことばは、便利であやふやだ。

「愚痴られる」ことを、喜ぶ人もいる。

なんだか、心を許してもらったような。

本音を話してもらっているような。

虚勢をはらず、かっこつけず、ありのままを見せてくれているような。

 

「たまには、愚痴りなよ」

「いつでも聞くよ!」

みたいに、寄り添う態度をとってみたり。

 

でもさ。

悲しみ、とか、寂しさ、を打ち明けることで

浄化する行為と混同しちゃいけないと思うである。

 

「人のせいにして、終わる」 

私の中で、これが、愚痴。

 

 

私は、愚痴は好きじゃない。

自分を守る言葉を吐き続けていると、

自分がその言葉に呑まれてしまうから。

最初はちょっとした息抜きで、「言ってみただけ」って思っていても、

だんだん、自分の中で、本当のことになっていく。

さらに、打ち明けた先の周囲が、

「そうだねかわいそうに」って一番簡単な姿勢をとろうもんなら。

言葉の力っていうのは、恐ろしい。

 

だから、先に言った、「私は愚痴を言われない空気を作る」という宣言も、

べつに、悲しい気持ちや寂しい気持ちを、聞きたくない、ということでは決してない。

 

さらには、

「正しく」振る舞おう、という、なんというか聖人ぶってるわけでもない。

「楽しく」過ごす、コツのはなし、の、つもり。